丸山眞男と日本の平和研究──虚妄に賭ける理知

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丸山眞男と日本の平和研究 ─ 虚妄に賭ける理知

最上敏樹(早稲田大学)

 

(仮要旨:引用はお控え下さい。)

 

 丸山眞男が平和あるいは平和問題を直接に論じた著作は非常に少数にとどまる。よく知られたものとしては、『三たび平和について』(1章・2章、1950年)および『憲法第九条をめぐる若干の考察』(1964/1965年)が、リアルタイムで日本の平和問題を考究したわずかな例である。

 

 にもかかわらず今もなお、日本の平和をめぐる議論において丸山が引照されるのはなぜなのだろうか。その2作だけでも十分以上のインパクトがあったと言うことも可能ではあろう。しかし、その遺産がいつまでも影響を及ぼし続けているのではなく、考えられる理由は他にもある。

 

 その一つは、数においてはリアルタイムの発言より多い、日本の歴史の中の非平和要因を剔抉し批判する論考である。それらはこの国の政治の論理と構造を抉ったものである分、長期にわたって有効性を保ちやすい。日本政治思想史の専門家であるから、対象とする時期は古代から現代にまでわたるが、平和に関してはとりわけ、近過去たる第二次大戦前および戦中についての鋭い分析がいくつも残された。『現代政治の思想と行動』所収の『超国家主義の論理と心理』や『日本ファシズムの思想と運動』や『軍国支配者の精神形態』、『忠誠と反逆』所収の『近代日本思想史における国家理性の問題』や『歴史意識の「古層」』などであり、その系列に属す作品は枚挙にいとまがない。

 

 それらの著作は、それぞれに濃淡をただよわせながら、日本における軍国主義・ファシズム・国家主義(および超国家主義)・国体・天皇制支配、等々の病理を抉る。その帰結をひとことで言うなら、なぜ日本という国家あるいはその国民が根底的かつ永続的に《反軍事主義国家》になりにくいか、という点である。平和憲法を否定し非軍事主義を冷笑する政治勢力が一貫して多数を占め、いままたそれが政治の最重要アジェンダであるかのように喧伝され、原理が根底から覆されようとしている。それが、いっときの多数派がしかけた一過性の政治運動にとどまるものではないのだということを、われわれは丸山の分析から読み取ることができる。

 

 それを剔抉する中で、それに対置させて丸山が決然と呈示したのは、なにより民主主義であった。おそらく平和主義以上にそうだったのであり、日本が民主的な国家として成熟することへの思いが強かったと言うべきであろう。その土台が確立しないから平和主義も国是として血肉化されない、という論理が丸山の中には確固としてある。更にそれは、日本の近現代には普遍的な理念や価値を求める姿勢が弱い、という批判とも表裏をなしている。この国が他者と共有すべき普遍的理念および価値が何であるかは、議論の分かれるところではあろう。だが、社会関係において国家ではなく人間が主人公であるとする思想=民主主義=がそのような普遍的理念であること、少なくともあるべきことは、いまや多数の共通認識と言えるのではないか。これまでの惨憺たる歴史過程からせめてそれぐらいの成果を獲得すべきであると、丸山は信念として持っていたように思う。

 

 他方で丸山の「主張」あるいは「意見」は、政治行動であるというよりはむしろ、ほとんどの場合、学問的な分析として呈示されている。まさしく、60年安保の強行採決の際に彼が東京大学で行なった講演の題は、『この事態の政治学的問題点』(傍点最上)である。あくまで学問的であろうとするこの姿勢は、丸山を読み解く際に着目しておかねばならない。つまり、その姿勢があることによって、その時々の政策的争点への賛否を超えた、物事の社会科学的判断基準が打ち建てらていたからである。

 

 近現代日本のさまざまな病理を批判するとき、丸山は、その病が拡大するのを防ぐことのできない、日本人(当然に学者を含む)の思考の限界をも批判していた。とりわけ、いわゆる「現実主義」に対してである。ズルズルべったりで政治の波に流される人びとが好んでこの言葉を使うのは、現実を怜悧に見すえているからではなく、わが身に危険が及ばぬ限りは沈黙したいがためであるか、あるいはそううそぶくことによって勝ち組の利益に与ろうとするためである。少なくともそれが通例である。丸山はそのことを、政治的敵対者への批判としてよりも、日本における多数派の思考の問題として論じた。

 

 その点を始めとして、丸山の議論には思考の方法や論理を論じたものが多い。実はこれは、最初に挙げた2大平和代表作、『三たび平和について』および『憲法第九条をめぐる若干の考察』でも最も重要な要素であり、平和を論ずる私たち後生にとっても示唆を与える事柄である。丸山がしばしば重視し強調したのが、あるものごと、たとえば民主主義や平和主義が内包する「方向性」とか「方向づけ」といった問題だった。いわく、憲法第9条が指示するのはただ一つの固定した政治・安全保障体制ではなく、一定の理念に従って達成されるべき状態への「方向づけ」である、というように。

 

 言いかえればそれは、理想は一瞬して達成されないのが普通である、したがってある種の無窮動を保ちながら理想に向かう過程をこそ大事にしなければならない、という現実主義である。あるいは、「醒めた規範的リアリズム」(坂本義和)である。そのように丸山の議論は、ものごとを動線において(あるいは動態的な過程において)捉える傾向が強い。それゆえにまた、学問論において丸山は、学問の非完結性をしばしば強調した。人間がつくる現実の世界は過渡的であることが多いが、それについての認識作業である学問もまた、丸山によれば往々にして非完結的なのである。そこにおいて学問は、平和についての研究であれ他のものであれ、一種永久運動的であることを引き受けねばならなくなる。

 

 そのような姿勢は、ある特定の理想を死守するという運動論とは少し違ったものになる宿命を負う。実際に丸山の議論は、平和や民主主義の価値をみずからの選択としては明瞭にしつつ、戦後の現存民主主義や現存平和主義そのものを無条件肯定していたわけではない。むしろ、それを支えるべき者たちのもろさを見失うことなく、「にも拘わらず」その成熟に期待する、ある種の否定的期待であった。「民主主義の虚妄に賭ける」という言明は、まさしくその謂いにほかならない。それは、そこにあった民主主義にではなく、その来たるべき担い手への期待として発せられた言葉であった。