『コメ』と『核』と『トウホク』と ―『周辺部イデオローグ』たちから見る中枢‐周辺構造研究アプローチ

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<日本平和学会2017年度春季研究大会自由論題1報告レジュメ>               2017/7/1

「コメ」と「核」と「トウホク」と

~「周辺部イデオローグ」たちから見る中枢‐周辺構造研究アプローチ~

                               

報告者所属:文教大学国際学部

                             報告者:奥田孝晴

 

キーワード:トウキョウ-トウホク(中枢-周辺)構造、権力の非対称性、「周辺部イデオローグ」、支配媒体(メディア)としての「コメ」と「核」

 

1.問題の所在

 ネオ・リベラリズムを基層として進展する今日のグローバリゼーションとは単なる「現象」ではなく、国境を越えて貫かれる「構造」そのものである。世界には「権力の非対称性」が織り成す中枢(中央)-周辺(辺境)の差別的関係が相似形を成して織り込まれている。東北地方を主に近現代の日本社会全体の中に位置づけ、その「周辺性」を客観的に把握しようとする研究アプローチは特段目新しいものではないが、本報告では「権力の非対称構造」の下で自主的決定権が決定的に剥奪されてきた“国内植民地”としてのトウホク(固有の地方名としてではなく、被疎外対象に付与される普遍的名称としてのトウホク)を歴史的なパースペクティブから眺め、時代とともに現れた「周辺部イデオローグ」たちの主張のから、改めてその矛盾を考察していきたい。

 

2.「周辺部イデオローグ」としての安藤昌益

 江戸中期、商品貨幣経済の浸透による「コメ」、「大豆」等の換金作物生産への特化圧力が東北地方に強まっていく中、当時の社会矛盾をラディカルに批判した東北人が安藤昌益(1703-1762)だった。東北地方にあっては凶作の発生頻度は4~5年に1回と高く、八戸南部藩でも1749(寛延2)年には「猪飢(イノシシけかじ)」と呼ばれる飢饉が起こり、約3,000人が餓死する事件が起こっている。その原因は、江戸、上方での味噌作り需要に対応して大豆生産が刺激され、八戸南部藩政府が領民にいっそうの大豆植えつけを強いたことが大きかった。ハーバード・ノーマンが『忘れられた思想家』で言及したように、昌益の時代の東北地方は「国内植民地」だった。昌益の思想はラディカルにその根源である幕藩体制と、暴利を貪る大商人階級への批判に向かった。封建の世は「不耕貪食の徒」で溢れている。彼は幕藩体制を「法世」と呼び、その不条理を退け、自然本来の世=「自然世」へ回帰すべきことを説いた。彼は自身が体験した不条理が東北地方の地政学的劣位に基づいており、経済的惨状が中枢-周辺構造の産物であることを鋭く見抜いていた。

 

3.大日本帝国にとってのトウホク‐日本資本主義の「特殊性」から

 19世紀後期、「西洋の衝撃」の前に慌ただしく近代国家の体裁を整えた明治政府は、発展に際して大きなハンディを抱えていた。日本の資本主義は、強固に残る封建的伊遺制の制約から逃れられず、また遅れて産業資本主義化が始まったこともあって、後進性を引きずっていた。農村では封建的な社会経済構造が温存されたままである一方、国家権力の庇護のもとで都市部に勃興する工業部門では政商資本家による資本集中傾向が強まり、寡占が進行していった。財閥寡頭支配の工業部門にとって農村部の購買力=国内市場は狭隘であり、産業資本主義発展を律束するハンディとなっていた。また、地主‐小作制度下での労働過剰情況は、絶えずその「はけ口」を必要としていた。日本資本主義に纏わりつく西洋列強に対すこのる後進性にこそ、その劣位を挽回すべく軍部・官僚が主導して大日本帝国が対外膨張運動に邁進しなければならなかった理由があった。昭和初期に至っても大日本帝国にとってのトウホクは米、雑穀、養蚕主体の農業地域の域を出ることはなかった。昭和初期には「トウキョウ」に象徴される都市工業セクターは一定の生産力増加を見せていた。農業・工業間の鋏状的格差拡大は、結果として金融資本の寡頭支配と農村部での搾取をいっそう強めることとなり、貧困化が加速された。東北農村部の後進性は近代資本主義の発展にとってより深刻な桎梏にさえなっていった。さらに1930年代に入ると世界大恐慌が日本経済を直撃した。主要な輸出産業であった綿織物・生糸産業は大きな打撃を被り、閉塞感が漂う社会情勢のもとで、民衆の不満は高まっていった。政府はその打開策として海外植民地の拡大によって社会的不満を転嫁することを画策し、「満蒙は日本の生命線」との世論に迎合し、それを積極的に利用しようとの姿勢に傾いていった。ここでもまた、東北地方は置き去りにされたままであった。

 

4.石原莞爾のトウホク‐トウキョウ論:「周辺ナショナリズム」とアジア主義

 東北農村の貧困は日本資本主義の後進性の象徴と同時に、土着的ナショナリズムの源となるものでもあった。農本主義の思想は、反西洋、反近代、反都市文明、そして反中央支配というテーゼを含んだ情念、一種の対抗性を含んだ「周辺ナショナリズム」の性格を帯びていた。また、近代日本の農本主義思想は対外的にはアジア主義主張と表裏一体の関係を成していた。アジア主義思想は、より「先進的な文明」である西洋近代に対する敵愾心、そして資本主義化・都市文明化の力に侵される農村共同体からの危機意識と、失われていく故郷へのノスタルジーを併せ持った対抗的ナショナリズムとして胞胚し、素朴な土着感情に通じていた。石原莞爾(1889-1949)はトウホクの「周辺ナショナリズム」とアジア主義の結合を体現し、その後の大日本帝国の膨張運動に大きな影響を及ぼした人物だった。第一次世界大戦後ヨーロッパ、とりわけワイマール共和国の惨状と、新たな覇権国家アメリカ合衆国が影響力を増しつつあるという世界のリアリズムに直接に触れることを通じて、石原の「周辺ナショナリズム」は大日本帝国のグランドデザイン=最終戦争論へと昇華していった。石原が掲げた「最終戦争」思想には、世界のトウキョウ=「中央としてのアングロサクソン両帝国」に対する後発的な世界のトウホク=「周辺としての大日本帝国」という思想的コンテクストが濃厚に内在していた。石原が傾倒した東亜聯盟の設立運動は、満州産業開発五ケ年計画の根底に流れる農本主義的傾向とセットになる。彼にあっては、東北地方と東京の間に横たわる理不尽な非対称関係は、近代日本と欧米列強との間にあるそれと相似形を成しており、大日本帝国は「周辺部」的地位からの脱却を目指し、「中央」へ成り上がっていかなければならなかった。それは「周辺部」に置かれた自身の故郷、祖国、そしてアジアの反骨精神を示すものとも言えた。

 

5.植民地産米との競合環境から見る「昭和農業恐慌」と東北地方

 満州事変の後も、日本慢性的な経済低迷状態を脱け出せないでいた。特に1933-34年を中心とした「昭和農業恐慌」期には東北地方農村部では下方分解が進み、農村疲弊を反映して小作争議も頻発した。同地方を出身とする兵卒や、青年将校の間には、政治家たちの腐敗や財閥中心の社会経済のあり方に対する憤懣が高まり、軍国主義ファシズムの台頭する背景となった。また、「米と繭の経済構造」にあって、生糸輸出は不振を極め、また人造絹糸の生産拡大や中国製品との競合にもさらされ、国内製糸業が衰退、結果、繭価は大幅に低落した。決定的だったのは、当時の東北農村の米作が朝鮮、台湾植民地総督府による産米増殖計画に基づいて内地に移入された米との価格競争にさらされ、劣勢に立たされた東北地方の「周辺化」がより進んだことだった。政府は政情安定化のために植民地(特に朝鮮半島)での米生産体制を強化し、米穀の日本内地への移入が進められた。1930年代の日本内地農民は、外地米との厳しい価格競争に晒されていた。また、満州国から朝鮮半島への粟や稗などの雑穀類の供給が間接的に朝鮮半島から日本内地へのコメ供給を補完する構造が確立していった。帝国主義支配秩序のもとに、満州―朝鮮―東北地方の「周辺ブロック」が東アジアには形成されていった。

 

6. 米価統制と日本型ファシズムがもたらしたもの

 植民地産米との価格競争の背景には、大正~昭和初期以来の米穀の生産管理と価格統制策があった。米穀統制法(1933)によって政府は米価基準の設定、植民地米を除いた外米の輸出入制限などを定めた。しかし、1933-34年には市場に回る米の激減や大凶作の到来にもかかわらず公定米価は引き下げられず、東北農民は買い戻しが困難となった。英国植民地下のインド亜大陸でしばしば発生した「飢餓輸出」と似通った社会構造が東北農村と東京の間にも存在しており、自分が生産した米さえ買い戻せないというのが1934年大凶作の裏事情であった。国家による農村への統制強化は食料供給の確保、階級闘争的騒擾を抑え天皇制を維持していくうえで重要な政策課題となっていった。さらに戦時下の食糧需給の逼迫は、地主制を前提とした生産性の停滞を許容することができない状況にまで至っていた。政府は生産者及び地主の自家保有米以外をすべて管理米とし、1941年産米よりは二重価格米制度を導入した。生産意欲を刺激するための施策とはいえ、この政策は小作農民の交渉力強化をもたらし、小作料の低下と相まって地主制に大きなダメージを与えることとなった。東北振興策が本格的に打ち出されたのは第2次近衛内閣によって新体制運動が促進され、大政翼賛会の成立に至る1940年代初頭のことである。それは東北地方農民を包含し、体制への帰順を促すべく、国家総動員体制が仕上がる時期でもあった。1942年には東条内閣によって食糧管理法が制定され、食料の需給に対する国家の完全管理体制が実現するが、それはまた、明治国家成立以来の地主-小作制度が実質的に意味を失う時期にも対応していた。

 

7.田中角栄と下河辺淳が「向こう」に見た景色

 「日本型統制システム」は、戦後の全国総合開発計画など国策開発の原型ともなるものであった。地域の自立を促す住民主体の内生的発展と隔絶した中央政府と巨大資本主導の「トウキョウ中心型開発」は、日本列島の各地にやがて「トウホク的情況」を固定させ、周辺化をより強く促した。戦後、権力の非対称構造を実質的に担保する“支配メディア”として、戦前の「コメ」は戦後「石油」・「核」(エネルギー)へ遷移し、中枢‐周辺構造を強化していった。田中角栄が政権を担った時代は内外要因によって高度経済成長が行き詰まりを見せた転換点だった。彼が重視した政治理念は周辺部にあった故郷新潟の「景色」によって形作られていた。『日本列島改造論』(1972)では「表日本と裏日本の格差」を改めるために広域ブロック拠点都市、地方での大工業基地の建設を中心とした拠点開発方式、新幹線と高速道路網によるネットワーク化を提言し、それを実現するためには裏日本が中央とより太いパイプで結ばれることこそが唯一の道であるとの主張がなされた。国家予算を梃子とした利益誘導と分配権限の一元的支配、その利権化というシステムは政・官・産の相互癒着を強め、道路族、建設族、防衛族などの既得権益集団を跋扈させた。一方、田中とは逆に、同時代の東京からはスモッグに覆われた空の「向こう」に目を向けていた人物がいた。下河辺淳(1923-2016)は東京生まれのエリート官僚で「一全総(全国総合開発計画)」から「五全総」までを取り仕切った「ミスター全総」であった。「拠点開発方式」や「大規模工業基地計画」などの野心的計画も、下河辺にあっては「トウキョウ支配」の構造は自明であり、地方はその補完部分だった。田中は「裏日本」から「向こうの景色」に憧れ、トウキョウへと駆けあがっていったのに対して、下河辺は霞が関で「東京の負荷軽減」という視点から国土開発を追求し続けた。彼はあくまでも「東京一極主義者」だった。

 

8.「核」を通して見える東北地方「周辺化」の現状:下北半島、福島浜通り

 戦後の国土開発政策は東北地方の地政学的地位を変革するものではなく、むしろその固定化を促すものだった。徴税や予算分配上の管制高地を独占する保守政権と中央官僚、それと癒着する財界が作り上げた既得権集団が幅を利かす社会にあって、地方では分権的な政策決定メカニズムや財政的自立のシステムは作られるべくもなかった。結果、地域社会での主体的な市民意識の覚醒は遅々たるペースでしか進まず、それに支えられ、発展すべき「戦後民主主義」は、地域共同体の自主的決定権を欠いたまま形骸化の道を辿る他はなかった。トウキョウの政策に翻弄され、“生贄”にさえなってしまったトウホク疎外のありようを象徴するのが「原子力の平和利用」を巡っての物語であったことは、「3・11」以後の経験からはっきりと可視化できる。日本最大の「核基地」となってしまった青森県下北半島(大間、むつ、東通り、六ケ所村そして三沢)、そしてメルトダウン事故を体験した福島県浜通り、それらが示す現状は、東京首都圏に電力を供給するために過疎地と言われる地方に危険施設を集中立地させ、地域住民に一方的な負担を負わせるという極めて歪な社会関係、民主主義社会の鉄則である「受益者負担の原則」さえ公然と破られてきた現代日本社会の差別的中枢‐周辺構造のありように他ならない。この構造を支えるために、国民には賠償、除染、廃炉など多大な費用負担を課される。

 

9.「核」とトウホク―国家体制(レジーム)と共同体(コミュニティー)との相克劇

 原子力発電所のような「集権的エネルギーシステム」に依存してきた弊害は、とりわけ原発立地地域の自治体で深刻である。福島第1原発のメルトダウン事故後、浜通り地域は賠償金額の差異によって地元コミュニティー内では相互不信が掻き立てられ、「ふるさと」の紐帯が失われている。除染も限定的にもかかわらず、特定避難勧奨避難地点が続々と解除され、住民の帰還が促されている。早期帰還が優先課題とされたため、結果は修復不可能なほどに人間関係のきずなを割いてしまう。その一方で、戦後日本社会には巨額のカネ、ビジネス・チャンスに群がり、利益を貪ろうとする多くの人々が重層的に連なることで、原子力利権の分配構造がビルトインされてしまっている。原発の再稼働とは、原子力産業自体が巨大な利権の塊であると同時に、巨額の資金注入が無ければシステム自体が維持されないものであるという無駄や非合理を容認する、歪んだ社会のありようをも表象している。「核エネルギー」は体制を維持強化する手段となる。昨今の電力消費事情や技術革新の進展などをふまえれば、原子力発電全廃には十分合理的な根拠がある。あえて再稼働に進もうとするのは、明らかに特定の政治的意図があるからだ。それは、大手電力会社の収益を増加させ、「原子力ムラ」の既得権を維持するとの意思、原発への依存を「フクシマ」以前の状況にまで再び引き戻そうとする意思である。それはトウホクを自らの従属物ととらえる発想から抜けだせない中央為政者たちの考え方を雄弁に物語る。

 

10.「大盗のシステム」を乗り越えるために

 格差是正と地方経済の活性化という課題がなぜ実現しないのか。トウキョウ‐トウホクの差別構造矛盾はどうして解消されないのか。それは資本や資源のトウキョウ集中改革が困難であったことと同時に、「権力の分散配置」が全く手つかずのまま放置されたこと、既得権を手放すことなど想定外とする意思と構造が強く日本社会にビルトインされていたからだろう。「管制高地」は絶えずトウキョウにあり、既得権益集団の利権が維持される構造にメスが入れられることは無かった。結果、トウキョウ集中のシステムは時代を経ても変わらないどころか、むしろ「戦後民主主義的合意」のもとで強化されてきた。近代この方、トウホクの自立権は奪われ,周辺地として機能させられてきたのだった。東北が周辺地=トウホクとなってしまう歴史は東北の人々が自ら意図したものではない。征服と隷属の圧力は何時も中央からやってきた。明治時代、田中(正造)は「真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、人を壊さゞるべし」として、人民を犠牲とする中央政府の「亡国の振る舞い」を非難した。「亡国に至る道」は自身の利益にのみ固執し、周辺部に犠牲に押し付けることに痛痒も感じることのない鈍感と無関心、そして差別を差別と認識できない「不耕貪食の徒」(安藤昌益)=中央為政者たちの幼児性によって今なお再生産されている。