足元の生活から考える平和の文化の学習

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日本平和学会2017年度春季研究大会

報告レジュメ

 

足元の生活から考える平和の文化の学習

 

室蘭工業大学

阿知良洋平

 

キーワード:入植、陸上自衛隊矢臼別演習場、いのちの循環、農民の自負、技術、平和的生存権

1.はじめに

 平和を国家の安全保障の枠組みに閉じるのではなく「権利」として構成した点は、国連「平和への権利宣言」にも日本国憲法・平和的生存権にも共通する重要な点である(笹本・前田2011、13頁)。同宣言では教育の重要性も指摘されている。本報告では平和学習の視点から、平和をひとりの人間の権利として捉える、特にひとりの人間の生活の権利として捉えるような学習のあり方を分析することを課題とする。

 対象は、陸上自衛隊矢臼別演習場をめぐる住民の平和運動(「矢臼別闘争」)のなかにある学習である。陸上自衛隊矢臼別演習場は、北海道・別海町、厚岸町、浜中町にまたがる。このあたり一帯は根釧原野と呼ばれ、低温の厳しい自然環境が主産業を酪農にした。矢臼別演習場は、その誘致が1961年に別海村議会で再審決定され、1964年までに杉野・川瀬の2戸を除いた該当地区の買収交渉が妥結してつくられた。

 

2.「矢臼別闘争」の創成期(1950年代~70年代):離農・買収工作を読み解く学習

(1)根釧原野への入植

 入植の経緯は多様だが、特徴は「緊急開拓実施要領」(1945年)による戦後開拓である。別海町泉川地区には「満州」引き揚げ者も多くいた。入植者には戦前からの意識の連続性もあった。「満州開拓が達成できなかったので広い北海道に新天地を求めて」(別海町泉川郷土史編集委員会1970、187頁)と「満州」の再挑戦に臨む意識があった。当時の別地区の集落調査では上意下達の構造の温存も指摘されている。

 泉川の人々の意識を変えたのは2つの事件だった。1958年の泉川事件では、共産党員の排除を鵜呑みにした地区の人々が、お世話になった上出五郎らに対する追放の反省を迫られた。1961年の農業基本法の変化に伴う構造改善事業では、政策の誘導から投資に励んでいた農家が借金の多さでランク付けされ農協の首切りの対象にされるという事件も起こった。地区の教訓は(1)無理な借金はしない(2)生活は派手にしない(3)仲間同士助け合わねば共倒れになる。ここに平和的生存への根釧農民の主体的な一歩が築かれる。

 矢臼別演習場の誘致は、政策的につくられた農民の借金とこのような抵抗感覚のもとにやってきた。「2万町歩を農民に返せ」の息長い闘いがここから続く(1965年、第1回平和盆踊り、今年第53回)。この感覚から農民の主体的な営農の確立と矢臼別演習場の土地を軍事から取り戻すこととは、両輪の課題となる。

(2)マイペース酪農の誕生

 高度成長期の酪農政策は頭数と乳量を増やす規模拡大路線一色だった。バルククーラーの画一的な導入が問題になった時、農民たちの労農学習会(1971年~)は設備によって生活・労働が操作される矛盾に気が付く。規模拡大は人間に負荷をかけ、健康被害も生んだ。そしてその競争的な営農は、親しい人の離農を止められない、ましてやその農地を取得して拡大するという、犠牲と分断の関係を生み出すものだった。

 おのおのの暮らし・労働にあった設備があるはずだ。ここから生まれたのが「マイペース酪農」である(三友2000)。当初経営分析にはじまった学習は、高コストの化学肥料や輸入飼料に依存せずに営農を続けられる技術学習も含んで展開した。そこでは牛の糞-完熟堆肥-永続的な牧草地-粗飼料中心-牛の健康という循環に支えられた人間の労働・生活のゆとりが基本である。

 

3.杉野・川瀬を支援する闘い

 演習場に囲まれた私有地である川瀬牧場(平和盆踊りの会場)は元の地区名は三股で、現在も近隣の酪農家にはそこへ続く町道を「三股道路」と呼ぶ人がいる。この呼称を聞くとき、そこは演習場に囲まれた特別な運動の世界であるだけでなく、周辺地区と隣接する生活圏域でもあることが改めて思い起こされる。

 「わたしはここにいたいのです」(川瀬の言葉)というテーマがある。川瀬は「平和を守るため」と言うと「自分を犠牲にして他人のために頑張っているみたいで、だんだん自分の言葉に嫌気が差してきた」と言いそれだけではなく「居たいから居るんだ(中略)居るためには、農業ができなければ生きていけないし、農業をやるためには演習場が邪魔になる。だから平和運動をやるん」だと言った(布施2009、99-100頁)。思考の基点を「安全保障」の側ではなく、まずはひとりの生活に足場を置く「矢臼別闘争」の権利意識の表明だ。川瀬はD型ハウスに日本国憲法前文・9条・12条を書いた(1999年)。

 平和盆踊りの時、土地の境界線に立つ自衛官がいる。「憲法があるから入ってこれない」。同時に、2004年から川瀬と共に暮らした渡辺佐知子さんは「そんな隊員も平和盆踊りの花火をきれいだと思ってほしい」と言った。ひとりひとりの生活の保障が誰にも行き届いてほしいとの願いだ。佐知子さんは「一人の暮らしを守らせるというのは(中略)私は『平和の文化』をつくり上げていくことだと思います」と言った。

 

4. 米海兵隊移転訓練(1997年)後:農民の自負からの批判

(1)根釧原野の自然の循環からの、移転訓練批判

 生活が成り立つことの根拠は足元の自然にある。酪農民らの学習は上記で述べたマイペース酪農の循環が微生物の力によることを、糞尿の投棄被害解消の尿処理や草地更新なしの牧草地の栄養素調査を通じて深めていった。マイペース酪農交流会では、この根釧原野では「草」を資源として自らの生業を「自立」的に成立させることが可能であることが技術的に確信されている。各農家のこうした手堅い経営が犠牲と分断の規模拡大路線ではなく互いの個性的な営農技術や暮らし方の尊重を可能にするという見通しがある。

 1997年から沖縄米海兵隊が矢臼別演習場に来て移転訓練をしている。反対連絡会が立ち上がり、その代表が酪農を営む森高哲夫さんである。森高さんは酪農と平和との関連について微生物の学習を通じて見えてきた(「共存」森高)と語り、様々な微生物に支えられながら自分の労働が成り立っていると同時に、自分の食料生産が人びとのいのちを支えているという共存のつながりに「自負」(森高)を持っている。

 こうした生存のあり方が可能なのにも関わらず、人間のいのちを奪う矢臼別演習場での軍事訓練について、森高さんは「自分たちはやはり、人々の命を守る食糧を生産してるということでは、対局だと思う」と言う。森高さんらのつくる共存のつながりと人を殺すことにつながる軍事のつながりは相容れない。ここでの訓練がアフガニスランやイラク等で人が殺されることにつながっているのは「許せない」(森高)。

(2)「誰にでも居場所がある」(「矢臼別闘争」の主要なテーマのひとつ)

 平和盆踊りでは、話す人、料理を作る人、歌う人、薪を割る人、すべてが等しく貴い平和運動の役割である。これは単なる組織論ではなく実践内在的に生成してきた平和的生存の人間関係像であり、その人らしさを回復させる「矢臼別闘争」の魅力である。地域の酪農生活でも、「農業の六次産業化というのがもてはやされていますが、農家が全部やってしまうと他の人の仕事がなくなる(中略)地域として、一次も二次も三次産業もあって、お互いに支え合って暮らすという方が健全で、望ましい姿では」と語られる(マイペース酪農交流会2013年11月)。「矢臼別闘争」の見ている世界は、世界の誰もが自分らしい生業を手に入れ互いを尊重し合って暮らす世界なのかもしれない。

 

5.技術的な次元の説得性と、権利感覚の生成

 共存のつながりを設備や技術の次元を含んで生活の中に作り上げてきた確信から軍のつながりを拒否するのが「矢臼別闘争」の平和的生存権の特徴だった。各々の暮らしの実情の中から平和の価値を見通す学習のプロセスとセットになった時、「平和への権利宣言」は実感・体感を伴ったものとして人々に掴まれるのではないだろうか。

 信念のみならず生活における物質の循環にまで掘り下げた技術学習が、生活のレベルで共存の可能性に根拠を与え、権利感覚の生成を手助けすることがわかった。渡辺佐知子さんは、人の生活を無残に破壊する「雇い止め」の現実を経験した後に矢臼別を訪れ、酪農政策の矛盾の中にありながらもいのちといのちが支え合っている生活に触れ、ここで生き抜くことを決意した(渡辺2006)。生活像の代案は権利主張の条件では決してないが、具体的な生活像の存在は、それしか道がないように見えてしまっている軍事のつながりの世界が実は一つの選択肢に過ぎないことを、人々の前に明らかにしていくことにつながるだろう。

 

参考文献

  笹本潤・前田朗(2011)『平和への権利を世界に-国連宣言実現の動向と運動』かもがわ出版.

  別海町泉川郷土史編集委員会(1970)『風連川源流を拓く-泉川のあゆみ-』.

  三友盛行(2000)『マイペース酪農』農山漁村文化協会.

  布施祐仁(2009)『北の反戦地主-川瀬氾二の生涯』高文研.

  渡辺佐知子(2006)「矢臼別の『ひとつのいのち』として」矢臼別平和委員会『矢臼別の里から』.