戦中派的批判意識と靖国問題 ー排外的ナショナリズムによる「追悼」の領有のなかでー

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日本平和学会2017年度春季研究大会

「公共性と平和」分科会

 

戦中派的批判意識と靖国問題

ー排外的ナショナリズムによる「追悼」の領有のなかでー

 

伊藤健一郎

立命館大学 国際関係研究科

 

キーワード:戦没者追悼、戦中派、靖国問題、靖国神社、ナショナリズム、排外主義

 

1.はじめに

1970年代頃からすでに「戦後民主主義」に対するアンチテーゼとしての性質を帯びる「靖国神社」は、戦没者の追悼の実践からは乖離する形で、昨今においては排外的で煽動的な政治/政治運動のシンボルと化している。靖国神社の政治的インプリケーションが高まるなか、「靖国」「歴史認識」「戦没者」追悼に関する言及が、排外的言説に絡めとられるような言説空間が展開されており、靖国問題に対する「合理的」批判も無効化されることが多い。その意味で、靖国問題とは、大量死の経験といかに向き合うかという「追悼」をめぐる問題ではもはやなく、戦後日本社会において蓄積され、放置されていたいくつかの問題が、表面化したひとつの「症状」と見るのが適切であろう。本報告においては、「靖国問題」が「症状化」した過程について仮説的な診断を試み、問題の解決に向けた指針を示唆する。

 

2. 靖国神社をとりまく現状

ここでは、靖国神社における「追悼」が、追悼それ自体から乖離し、排外主義運動のひとつのシンボルとしての位置を獲得してきたプロセスを概観する。

 

(1)排外主義による「戦没者追悼」の領有

・1980年代末頃から「民族派」らが接近(反世俗主義的な関心がメイン)

・90年代半ば以降、歴史修正主義の政治的インプリケーションの増大

(cf 新しい歴史教科書をつくる会/ 「慰安婦」「南京虐殺」をめぐる論争 / 「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」などの発足)=「歴史」の政治化

・2000年代初頭〜半ばにかけて、小泉公式参拝→ 8月15日の社頭での喧騒が定例化

・2009年8月、靖国反対派デモに対する「カウンター」行動(民主党批判と排外主義の結託)

「時代の流れを決定づけた動員力の差」(NPO外国人犯罪追放運動顧問 瀬戸弘幸)

・近年、終戦記念日の「靖国フェス」(排外主義活動家、デモ参加者による展示、物販、署名活動等)

 

-  維新政党・新風代表 鈴木行信らが社頭で配布していたチラシ(2015年配布)の抜粋

 

私たちは、祖国の国難に殉じた英霊に感謝の誠を捧げるために、戦争体験のない現代を生きる者としてできることはないか、と考えて始めたのがこの清掃奉仕でした。(略)靖国神社の英霊に感謝の念を抱く皆さん、清掃奉仕に参加されてはいかかでしょうか。靖国神社に対して支那・朝鮮は内政干渉という侮り(ママ)を繰り返し、国内では靖国神社に替わる追悼施設新設の議論と、いわれなきA級戦犯分祀の声がくすぶり続けています。このような二百五十万英霊を冒涜する行為は許せません。 

 

→清掃活動は1995年から始めらている。また同チラシの裏面では、「竹島ステッカー」や、慰安婦像に禁止マークを重ねた「捏造禁止ステッカー」等の商品の紹介がなされている。

 

 

(2)靖国をめぐるディベート的な言説空間の登場

とくに90年代末以降、今日に至るまで、「靖国問題」は、「平和主義」「人権」「民主主義」といった「戦後的」な諸価値に対してシニカルな相対化を仕掛けるゲームへと政治的コミュニケーションを囲いこむためのプラットフォームへと変質している。

 

・「どの国でもやっている」「日本は(言われているほど)悪くない」「歴史問題で譲歩する他のテーマでも付け込まれる」等の言説

 (cf. 情報バラエティ番組、2ちゃんねる、ニュースまとめサイト、それらを活字化したもの、「保守」を標榜する政治家・オピニオンリーダーら)

 

- 純化された反-戦後イデオロギーの事例「若手国会議員」武藤貴也の戦後論(2012年)

 

最近考えることがある。日本社会の様々な問題の根本原因は何なのかということを。(略)そして、いつもその原因は「日本精神」・「日本人的価値観」を失ったことにあるのではないかと思うのである。そもそも「日本精神」が失われてしまった原因は、戦後もたらされた「欧米の思想」にあると私は考えている。そしてその「欧米の思想」の教科書ともいうべきものが「日本国憲法」であると私は思う。

 

→「保守」を標榜する武藤は「戦後」とは「日本精神」が喪失された時代として認識している。武藤はまた「豊かな日本」を作ったのは「私たちの先祖」であるとした上で「そう考えると、靖国神社に行かねばなりませんよね。今日の日本の平和と繁栄は、彼らの尊い犠牲の上にあるのですから」と語っている。

 

このように、現在、「靖国問題」やそれに近接する「歴史認識」等に関する言説が、日本/日本人の「正しさ」「強さ」を論証し、批判的な見解を阻却するための「場」として機能している。その「日本」に対するネガティブな評価を伴う言及一般が、非-日本的/非-日本人的なものとしてただちに阻却され、たとえば日本軍の加害性に言及することは「自虐史観」あるいは「利敵行為」として糾弾の対象となる。これが、「靖国問題」という論争テーマの周囲で展開されている言説空間の環境であり「過去といかに向き合い、現在の指針とするか」という実質的な追悼の営みが、ますます空洞化される状況にあると言える。

 

3. 戦中派的批判意識の可能性

ここでいう戦中派とは「自分も戦死者であったかもしれない」という感覚を核に、文章を綴った一群の人々を指す。ここでは、彼らのテクストに即して、彼らに特有の戦後観・権力観を析出する。

 

(1)橋川文三の「死に損ないの原理」

1. 1959年、政府主催の追悼イベントに際して、

「わだつみ」は、幸か不幸か死にきっていない。彼らは記憶し、感覚し、理解する。戦争を戦後の中にみたし、記憶の中に現在を想起する。彼らにとって完璧に死に切った仲間はいない。玉串の奉奠や雅楽によって死に切ることのできるいかなる存在も彼らには考えられない。

2. 同上

「わだつみ」にメタフィジクはない。しかし、権力と死に対する最後までの抵抗者となるはずである。なぜなら、彼らは死よりも硬質の一つの原理――「死に損ない」の原理をもっているのだから。

 

(2)安田武の「死者への謙虚さ」「怒りの持続」

1. 1960年代後半、靖国神社の国家護持を推進する動きに対して

死者を弔う最善の道は、私たちが死者のまえに、謙虚になることではないだろうか。いたけだかに、イデオロギーを争い、「政策」を強行するといった行為や心情ほど、死者に対する追善のこころから遠いものはあるまい。

2. 1969年「わだつみ像破壊」を受けて

正義を呼号し、激情を爆発させることはたやすい。だが、正義を持続し、怒りを執念として生きること、それがということの意味であり、ということの意味である。

 

(3)水木しげる「わけのわからない怒り」(『総員玉砕せよ』文庫版(1991年)のあとがきより)

ぼくは戦記物をかくとわけのわからない怒りがこみ上げてきて仕方がない。多分戦死者の霊がそうさせるのではないかと思う。[強調―水木]

 

→水木にとって、誰にも看取られず死んでいき、忘れ去られるだけの戦友らの無念さを作品の形で社会に還元することが「追悼」だったのであろう。追悼とは戦死をもたらした権力に対する「怒り」を伴う行為であることを、水木の態度は示している。この身体化された権力への怒りと不信感は、多くの戦中派に共通する傾向である。

 

(4)吉田満「日本人は何を学んだのか」(1975年のエッセイ「戦後日本に欠落したもの」より)

どうすれば戦争を回避できたのか、何が日本の孤立化を招来したのか、敗戦後何をよりどころにし、どこに「日本人としてのアイデンティティー」をどこに求めるべきであったを問うて、安田は次のようにのべている。

 

われわれが今もし太平洋戦争から充分のものを学んでいるとすれば、以上の設問に明快に答えうるはずである。戦争のため生命を捨てなければならなかった同胞250万人の霊に対し、彼らの犠牲の代償として、現在これだけの収穫がえられたと、報告しうるはずである。みずからを孤立化の袋小路に追い込むような過誤を、二度とおかすことはない、世界の中に日本が占めるべき場所を確保してみせると、誓いうるはずである。

→吉田は、戦前社会を「忌まわしい記憶」で満ちた「人間軽視の時代」と認識してきたが、一方で「戦後日本の安易な足取り」に対して警鐘を鳴らし続けていた。吉田のテクストは、「戦後民主主義」の脆弱さのひとつは「大量死」に至る過程の綿密な検証とその共有が徹底されたなかったことに起因するという視座を提供してくれる。

しかし戦中派意識は、戦後社会の経済的発展に伴い訴求力を急速に失ってゆく。また、後続世代にからなされた戦中派の訴えの無効化の効果も無視できない。戦中派は(戦死者にせよ帰還兵にせよ)、「侵略戦争に加担した」として、政治的に先鋭化した戦後世代による批判の対象となった。世代後退が進むにしたがって「加害性」の認識はかなりの程度、社会的に定着し、歴史認識をめぐる議論の前提となってゆく。

 

(図)70年代初頭頃における、戦中派的批判意識を取り巻く状況

(世代交代の進行、消費社会の進展に伴い、図右側の「脱政治化/脱歴史家された意識」が拡張することになる)

 

 

 

4. おわりに

「靖国神社」に過大な政治的負荷がかかる過程は、日本社会の脱政治化の進行と呼応している。

その過程とは、「自分も戦死者であったかもしれない」がゆえに、権力に対する警戒意識を維持し続けた戦中派知識人の意識が社会的に周辺化されてゆく過程でもあった。そこに生じた「追悼」をめぐる空白地帯が、反-戦後民主主義的な、ひいては排外主義的な運動によって領有されてしまったと解釈することができる。

 戦中派知識人らは様々な形で実質的な「追悼」に関わった。彼らこそ様々な形での「追悼」にこだわり続けた人々であり、相対化不可能な内的基準を軸に、権力に対する鋭敏な批判意識を体現していた。社会の脱政治化を背景とする靖国問題の過度の政治化、その政治的負荷の増大と、「靖国」をひとつのシンボルとした排外的ナショナリズムのさらなる増長を抑止するための方法を、戦中派の「追悼」は示唆している。

 

参考文献

 安田武、「靖国神社への私の気持ち」『現代の眼』1968年2月(Vol.9, No.2)

 伊藤健一郎「追悼から遠く離れて:反-戦後イデオロギーの台頭と靖国神社をめぐる言説の推移」(博士論文、立命館大学、2016年)

 橋川文三、「幻視の中の『わだつみ会』」『東京大学新聞』、1960年)(『橋川文三著作集(5)』(筑摩書房、2001年)収録)

 野坂昭如『卑怯者の思想』中央公論社、1969年。

 水木しげる『総員玉砕せよ』講談社文庫、2011年。

 吉田満『戦中派の生死観』文春文庫、2015年。