平和の政治哲学 -レオ・シュトラウスの政治哲学における戦争と平和-

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日本平和学会 2017年度秋季研究集会

自由論題部会 

 

平和の政治哲学

-レオ・シュトラウスの政治哲学における戦争と平和-

                        

島根県立大学 総合政策学部

松尾哲也

E-mail: t-matsuo@u-shimane.ac.jp

 

キーワード:レオ・シュトラウス、政治哲学、戦争と平和、節度、本来の意味で「リベラル」であること

 

 

1.はじめに

 政治哲学者レオ・シュトラウス(Leo Strauss,1899-1973)は、アメリカのイラク攻撃など、ブッシュ政権当時のネオコンの対外政策に影響を与えた人物であると指摘されている。つまり、自由と民主主義を広めるためには、武力攻撃も辞さないとする強硬的な対外政策の背後に、シュトラウスの教えがあるという指摘である。そうした指摘は、シュトラウスの政治哲学の本質を捉えた評価ではない。なぜなら、シュトラウスは、平和を希求する政治哲学を展開しているからである。

 

 

2. 常識と政治哲学

 シュトラウスは、1963年に行った「現代の危機」という講演のなかで、社会科学は、あらゆる科学的理解に先立つ、政治的なものに関する常識的理解と呼べるものについての、首尾一貫した、包括的な理解を駆使しないならば、自らが行っていることについて明瞭な理解に到達しえない、そして、まず何よりも一般市民や政治家が経験したように、政治的なものを理解しないならば、社会科学は政治的なものについての明瞭な理解に到達しえないと断言している。

 政治的なものについての明瞭な理解に到達するためには、その常識的な理解についての首尾一貫した包括的な理解を獲得しなければならない。常識とは、シュトラウスにとって「事柄についての市民の理解」を意味する。

 政治的生活は本質的に、政治的知識と、誤謬・推測・信念・偏見・予測に基づく政治的意見とが交じり合ったものによって導かれていると指摘するシュトラウスにとって、政治的意見を政治的知識によって置き換えるものが、政治哲学であった。すなわち政治哲学は、「政治的なものの本性に関する意見を政治的なものの本性に関する知識によって置き換えようとする試み」として、意見を学問的出発点とする 。

 ここで注目すべきは、次のようなシュトラウスの指摘である。つまり分別ある大人ならば、ある程度の政治的知識を保持しており、誰もが税、警察、法、刑務所、戦争、平和、休戦について何かを知っている。さらに誰もが、戦争の目的は勝利であること、戦争は最大の犠牲と他の多くの損失を要すること、また勇気は賞賛に値し、臆病は非難に値することを知っている。そしてシャツを買うことは、投票することとは区別され、本質的に政治的行動ではないことを知っている。そうした普通の人がもつ政治的知識は、長く政治的経験を積んだ聡明な人がもつ政治的知識と比べると確かに乏しいけれども、普通の人も常識としてある程度の政治的知識を保持している。

 なぜ、シュトラウスは常識をこれほどまでに重視するのか。その手がかりを、戦争に関するシュトラウスの次のような記述に求めることができる。

 戦争の知識は、人間の生活のなかで戦争が占める位置についての知識を含む。いかに漠然としていても、戦争そのものについて、また人間の生活のなかで戦争が占める位置そのものについて、何らかの観念を持つことなしに、一定の期間に行われている戦争について何も知ることはできない。

 つまり、戦争を知るということは、戦闘行為の事実的経過だけを知ることではない。戦争を知るということは、それが人間生活においていかなる意味を持つのか、という包括的視点によって戦争を知ることである。戦争とは何か。その知識は、人間生活において占める戦争の位置も含めた包括的かつ全体的な視点によって獲得できるものであった。

 政治的なものに関するあらゆる知識は、政治的なものの本性に関する了解事項を含んでいる。それは、単に一定の政治的状況に関する了解事項だけでなく、政治的生活や人間の生活そのものに関する了解事項を含んでいるとシュトラウスは明言している。

 シュトラウスにとって、政治哲学は、個別具体的な政治的状況に規定された学問的探求ではなく、人間の生活における戦争の位置を問うなど、包括的であることを意図している。そして包括的であるためには、科学者が観察によって獲得する知識だけでなく、常識、すなわち「事柄についての市民の理解」を把握することが必要であった。

 シュトラウス自身も、「たとえ戦争が避けられず、また戦争に身を捧げなくてはならない場合であっても、戦争を悪として、また罪深いものとして否定しなければならない」と戦争を断罪した。それは、戦争という一定の政治的状況のみに限定して政治的なものを捉えるのではなく、人間の生活において戦争が占める位置に関する常識を含めた包括的な視点から政治的なものを捉える姿勢である。

 さらにシュトラウスにとって、常識は、単に政治的なものを明瞭に理解することだけに関わるのではなく、幾つかの選択肢が対立しているとき、どの選択肢を選択すべきか、という実践的価値判断の基盤となるべき知識であった。

 戦争が最大の犠牲と他の多くの損失を要するという常識は、市民から見た戦争に関する知識である。政治哲学は、そうした「人間が常に知っているような、社会的実在の包括的分析」に基づくことによって、重大な政治的選択肢間の対立・論争を解決に導くことを可能とする。戦争が人間生活に与える影響についての常識は、開戦か、戦争回避かといった重大な政治的選択肢について、責任ある判断を下す基盤を提供する。

 

 

3.本来の意味で「リベラル」であること

 ソクラテス、プラトン等の古典的政治哲学者は戦争の現実的可能性を承認するとしても、古典的政治哲学者にとって都市の目的は、あくまで人間の尊厳に合致した平和的活動であって、戦争や征服ではなかった。古典的政治哲学者は、友と敵の集団化という現実を見据えているが、それでも人間の完成、善き生といった視点のもとに政治を価値判断し、政治を善き方向に導こうとする。

 そうした態度こそ、古典的政治哲学が言葉の本来の意味で「リベラル」であったゆえんである。まさに古典的政治哲学は、万人は先祖伝来のものでも、また伝統的なものでもなく、自然によって善を求めるという認識によって導かれているがゆえに、単純に保守的(conservative)とはいえない。

 シュトラウスによれば、「リベラル」であることは、「リベラリティー(Liberality)」という卓越性を身につけ、それを実践することである。「リベラル」な人間は、低級な欲求を満たすものではなく、それ自身において選択に値するものを求める。ほとんどの人間は財産を尊重するが、財産を善として追求するために生きる者は、財産の奴隷にすぎない。また「リベラル」な人間は、より善き生を探求し、不当であると見なす権威には決して従属しない。彼は自律した生き方を尊重するのであって、専制君主や征服者には従属しない。

 古典的政治哲学において、人間の魂の自然的秩序とそれに則した善き生の在り方こそが、政治を善き方向に導く指針であり、基準であった。そしてそれゆえにこそ、戦争や征服は都市の目的では決してなく、人間の尊厳に合致した平和的活動こそが都市が追求すべき目的だったのである。

 本来の意味で「リベラル」な政治哲学は、現実の政治秩序に対する批判的視点と善き生とは何かという観点から、人間の尊厳を重んじる善き政治秩序を探求する。そして本来の意味で「リベラル」であることは、政治的現実とともに、人間の限界を見据える「節度」(moderation)と善き政治秩序を探求する知恵とを分離しない。

 

 

4.「節度」の意味

 シュトラウスは、「節度」が古代の歴史家トゥキュディデスによっても重視されており、その道徳的な意味は、プラトンやアリストテレスら古典的政治哲学者と共有されていたものであることを指摘している。そして、「節度」が戦争を回避し、平和を希求するものであったことを明らかにしている。

 シュトラウスによると、健全な都市は、「節度」の徳(the virtue of moderation)を最も高く評価するのに対して、不健全な都市は、大胆不敵さ、いわゆる男らしさに心を奪われ、「節度」よりも、それらを好む。「節度」は、平和と同類であり、大胆不敵さや男らしさは、戦争に属する。こうしたトゥキュディデスの道徳的な嗜好は、プラトンの道徳的嗜好と一致しており、あらゆる賢者、さらには近代に先立つあらゆる偉大な思想家たちの道徳的嗜好とも一致しているとシュトラウスは指摘する。

 シュトラウスの解釈によれば、トゥキュディデスにとって、ペロポネソス戦争は必然的なものではなかった。つまり戦争を避けることも選択肢の一つとしてあったのである。分別のある方針と狂った方針、「節度」ある方針と「節度」なき方針、正しい方針と正しくない方針との間には、選択の余地がある。そして、政治的生活を制御でき、また制御しなければならならない徳は、トゥキュディデスが理解しているように、正義よりも「節度」であった。その「節度」は、長期的な事前の考慮以上のものである。さらに続けてシュトラウスは、「節度」について、アリストテレスの言葉を用いるならば、道徳的な卓越性であると述べている。

 「節度」なき方針は、人間の限界に従ったものではないものとして知恵によって否定されるべきものであった。「節度」なき方針は、偶然や運に依存するがゆえに、結果的に悲惨な結末を迎える。トゥキュディデスが記述したアテナイ人とその同盟国のエジプト大遠征は、悲惨な結末を迎えた。極端な方針は、悲惨な結末を迎える。正しいのは、中庸である。

 

 

5.本来の意味で「リベラル」な政治哲学

「節度」は善や正義を探求する人間理性が、政治的なものに固有の論理と直面し、政治的なものの限界とともに人間理性の限界を自覚するときに生まれる人間の卓越性であった。「節度」とは、理性を制御する一つの徳であり、理性が政治固有のパースペクティブを受け容れることである。

 しかし、「節度」は、政治を侮蔑し、政治からの逃亡を促すものではない。本来の意味で「リベラル」であることは、人間の限界を見据える「節度」と善き政治秩序を探求する知恵とを分離せず、善き政治秩序と平和を希求するからである。政治的なものの本性と人間理性の限界を自覚しつつも、不当な権威に従属することなく、善や正義に関する基準によって政治的なものを価値判断し、善き政治秩序と平和を希求する。それが本来の意味で「リベラル」な政治哲学である。その政治哲学は、知恵と「節度」を分離しないことを重視しており、武力を用いてでも自由と民主主義を世界的に拡大しようとするネオコンの政治姿勢とは相容れない。シュトラウスの政治哲学における戦争と平和の議論は、古代に限定された議論ではなく、現代においても平和を希求する政治哲学の重要な論点を提供するものである。