60年安保改定とは、1952年発効の日米安全保障条約(正式名称も同じ、改定後に「旧」安保条約と呼ばれる)から現行の日米安全保障条約(正式には「日本と米国との間の相互協力及び安全保障条約」、改定後に「新」安保条約と呼ばれる)への改定過程(ほぼ1958年から1960年)を指します。そのなかで、改定される「新」安保条約に対して当時の国民が展開した反対運動を「安保闘争」と呼びます。
なぜ、新しい安保条約が必要とされたのでしょうか。二つの条約の名称の違いに、重大なヒントがあります。旧安保条約になくて新安保条約にあるのは、「相互」と「協力」です。つまり、現行の新安保条約は日米がお互いの安全保障をはかるために協力を深めるとしています。それに対し、旧安保条約には米国が日本を守ることは明記されていませんでした。同時に、米国は基地を日本に置く権利をもつとされ、また日本で内乱が起きたとき、日本政府の要請があれば介入ができるとされていました。
戦後10年あたりを過ぎると、国民の間で旧安保条約は日本を独立国として扱っていない象徴となり、依然として占領が続いていると不満が募っていきました。そして、安保改定要求へと高まっていきました。また、二つの原爆投下(1945年8月6日の広島、8月9日の長崎)による被爆国であること、そしてビキニ環礁での水爆実験による漁船乗組員が被曝したこと(1954年3月1日の実験による第五福竜丸事件)などで、日本国内での反核感情も高まっていきました。
そうした国民の動きを察知した米政府は、日本での米軍基地を維持するために条約改定へと動き出します。また、政権についたばかりの岸信介も、それまでの鳩山一郎内閣や石橋湛山内閣とは異なって、日米関係の安定こそが日本の安全を高めるとして、安保改定に積極的でした。
しかし、日米開戦時の閣僚かつA級戦争犯罪人容疑者であった首相の岸がみせた強圧的な議会運営について、国民の多くが戦前のような国家体制の再来だと感じました。岸は予定されていた米大統領の訪日に間に合うよう、1960年6月20日未明に衆議院で新安保条約の強行可決を行いました。つまり、参議院での審議よりも、憲法の規定する条約批准の衆議院優先による自然成立を狙ったのです。この可決以降、岸の進める安保改定に反対する安保闘争が展開しました。しかし、可決から30日後、改定された安保条約は国会承認となりました。そして、6月23 日に日米間で批准書が交換され、その日に新安保条約は発効しました。
新安保条約の「相互」とは、米国からすれば日本と米国が対等の関係で相互に守り合うこと、つまり集団的自衛権の行使だと考えていました。それに対し日本は、対等な関係つまり基地使用について日本側が発言できる仕組みを考えていました。なかでも、アイゼンハワー政権が通常戦力よりも核戦力の強化を唱えたため、海外への核兵器配備に注目が集まっていました。日本国民の間に核兵器への拒否感が強かったため、日米での改定交渉において日本にある米軍基地の使用をめぐって核兵器「持ち込み」が主要議題となりました。
結果として、事前協議制が導入されます。その裏には、核搭載艦の寄港、兵站活動などについては協議の対象外とするなどの秘密合意が存在していました。1957年以降に日本にある米軍基地は削減される一方で、米国の施政権下で基地の自由使用と核の配備・貯蔵を許されていた沖縄への米軍基地機能の集中が始まります。日本の基地が減ったために安保条約での「相互」は、沖縄以外では、次第に問題視されることがなくなります。と同時に、現在に至るまで、米国は日本の対米「協力」要求を、様々な形で強めてきています。(我部政明)
保坂正康『六〇年安保闘争の真実』(中公文庫、2007年)
我部政明『戦後日米関係と安全保障』(吉川引文館、2007年)
波多野澄雄『歴史としての日米安保条約』(岩波書店、2010年)
豊田祐基子『日米安保と事前協議制度』(吉川弘文館、2015年)