100の論点:66. 人間の安全保障とは何でしょうか。

 人間の安全保障という概念は、国連開発計画(UNDP)による『人間開発報告1994――人間の安全保障の新次元』の刊行を契機として、様々な議論に用いられるようになりました。UNDPが同報告書において新たな概念を提起した背景には、40年以上の長きにわたり続いた冷戦の終結による、安全保障概念の転換がありました。

 それまで、安全保障という概念は国家間の紛争から国民と領土を守る意味合いで使われていました。そこでは、国家による軍事力の増強と国家間の武力均衡が求められており、各国は多くの予算を軍事費に割り当てていました。UNDPは同報告書の中で、冷戦後の社会においては、国家間の政治対立に基づいた武力に対する脅威よりも、貧困や健康、環境問題といった人びとの生活に根ざした脅威のほうに重点を置くべきであると指摘しています。そして、冷戦終結にともない削減傾向にあった軍事予算を、貧困の撲滅やあらゆる差別・格差を是正するための支援に振り向けるために、人間の安全保障という概念を提起しました。

 国連難民高等弁務官を長きにわたり務めた緒方貞子氏と、ノーベル賞経済学者アマルティア・セン氏が共同議長を務める人間の安全保障委員会は、2003年に刊行された報告書『安全保障の今日的課題』の中で、人間の安全保障を以下のように定義しています。

「人間の生にとってかけがえのない中枢部分を守り、すべての人の自由と可能性を実現すること」

 生の中枢部分とは、人が享受すべき基本的な権利と自由を示します。しかし、何が守られるべき権利であり、保障されるべき自由であるのかは個人や社会によって異なることから、具体的な内容は明示されず、国際機関や各国政府機関、研究機関が独自の解釈を試みてきました。そのことが、人間の安全保障に対する一元的な理解を困難にする一方で、その概念をより豊かなものへと開花させてきました。

 人間の安全保障は、個人や社会など、国家よりも小さな単位に焦点を当てています。国家の安全が守られれば、政府の庇護のもと間接的に国民の安全も守られるというトップダウン的な国家の安全保障に対して、様々な脅威に晒されている人びとを直接保護し、脅威を排除することにより、ボトムアップ的に社会の安全を図ろうというのが人間の安全保障です。また、国家安全保障が敵対的な他国の存在を前提にし、敵国から国境や制度、文化、価値観、国民の安全などを守るという問題意識に端を発しているのに対して、人間の安全保障は人びとの安全を脅かす多様な脅威から人びとを守ることに焦点を当てています。

 では、多様な脅威とは何を指すのでしょうか。人、モノ、金、情報が国境を越えて移動するグローバル社会においては、貧困や環境汚染、テロ、紛争、感染症なども国家の枠組みを超えた規模で発生します。テロや紛争における暴力の抑止は、国家の安全保障の枠組みでも議論されますが、人間の安全保障では、これらの原因となる差別や貧困、格差などにも言及します。そしてテロや紛争を国家の存立を脅かすものとしてではなく、人びとの安全に対する脅威として扱います。紛争によって深刻化する難民問題などは、安全が奪われた結果として発生する事象であり、人びとの安全を回復し、難民を保護すると同時に、平和構築の可能性を追求します。ここからも、人間の安全保障は人間中心の概念であることがわかります。

また、政府が虐殺を主導したり、飢饉を放置したりするといった、国家安全保障が前提としている自国民の保護を政府が放棄する、もしくは危機的状況を助長するようなケースも多様な脅威に含まれると考えられます。そのような文脈において、人間の安全保障は国際社会や市民社会が、一国の政府に対して人びとの保護を求める、もしくは自らが関与する際の根拠付けにも用いられます。日本国内においても、福島第一原子力発電所事故や沖縄の米軍基地問題、今回の安全保障法制などにおいて、人間の安全保障の観点から問い直す議論が進んでいます。

 人間の安全保障では、紛争や慢性的貧困、大規模災害、環境汚染など、自らの力では対処しきれない外的要因から人びとを「保護」するために、政府や国際機関、民間企業、NGO、市民社会に対して、人びとの安全を脅かす要因の排除に向けた具体的な行動を促します。加えて、災害や病、経済危機など想定外の事態に遭遇しても、みずからの力で生活を立て直しうるだけの「能力強化」を重視します。これにより、目の前の危険を回避すると同時に、人びとが自ら行動し、問題に対してアプローチする力を身につけることを目指します。

 このような人間の安全保障を、日本政府は重要な外交指針として位置づけてきました。政府開発援助(ODA)の基本方針を示した「開発協力大綱」には、人間の安全保障の推進が明記されており、「個人の保護と能力強化により、恐怖と欠乏からの自由、そして、一人ひとりが幸福と尊厳を持って生存する権利を追求する人間の安全保障の考え方は、我が国の開発協力の根本にある指導理念である。」としています。人間の安全保障実現に向けた歩みは国際的にもまだ始まったばかりです。日本がその旗振り役となれるのか、今後の動向を注視する必要があります。 (日下部尚徳) 

 

参考文献

アマルティア・セン『人間の安全保障』集英社新書、2006年

国連開発計画『人間開発報告1994――人間の安全保障の新次元』国際協力出版会、1994年

高橋哲哉・山影進(編)『人間の安全保障』東京大学出版会、2008年

人間の安全保障委員会『安全保障の今日的課題――人間の安全保障委員会報告書』朝日新聞社、2003年