日本はなぜアジア・太平洋戦争に突き進んでいったのかということを考える場合、日本が第1次大戦後の国際秩序を破壊しつつ中国侵略を拡大していった前史を踏まえなければなりません。第1次大戦後に形成された国際秩序であるヴェルサイユ=ワシントン体制は、国際連盟規約・九ヵ国条約によって領土不可侵と中国の「門戸開放・機会均等」を約するものとなっていました。1931年に日本が開始した「満洲事変」は、国際連盟規約・九ヵ国条約、さらに不戦条約に違反して、中国東北を侵略し、排他的支配下に置くものであり、とりわけ「門戸開放・機会均等」の主唱者であったアメリカにとっては原則的に承認しがたいものでした。日本は1937年の日中戦争開始後に支配地域をさらに拡大し、翌年「東亜新秩序」建設を声明しましたが、これは従来の国際秩序を改変する意思を宣言したものでした。
日中戦争が泥沼化するなか、1940年に第2次近衛文麿内閣は戦争解決の道を、「南進(東南アジア進出)」による対中軍需物資輸送ルート遮断と日独伊三国軍事同盟締結によるアメリカ牽制に求めました。この路線はドイツがヨーロッパを席巻する状況と相まって、逆にアメリカを対英中支援と対日抑止に向わせることとなりました。さらに近衛内閣は東南アジアを含めた「大東亜共栄圏」を日本の「生存圏」とする方針を決定し、アメリカがそれを妨害するならば武力を行使する方針を決定しました。
1941年7月に第3次近衛内閣が南部仏印(ベトナム南部)進駐を行ったのに対して、アメリカは石油の対日全面禁輸を実施しました。このため海軍中堅層からは石油の備蓄が多い間に対米開戦をするべきだとの早期開戦論が高まりました。近衛首相は9月に御前会議を主催し、日米交渉において日本の要求が通らない場合は10月に対米開戦を決意すると決定しました。その後近衛首相は開戦回避に傾き、中国からの撤兵を東条英機陸相に求めましたが、東条に拒否されて内閣を投げ出しました。
後を襲った東条内閣は勝算に不安を抱く昭和天皇の意を受けて10月の開戦決意を見送り、日米交渉を継続しました。しかし中国と仏印からの撤兵を拒否し、その一方でアメリカに石油供給を求める日本と、撤兵を要件とするアメリカとの間で妥協が成立する可能性は高くありませんでした。結局日本軍は、1941年12月8日に、英領マレーへの奇襲により「大東亜共栄圏」確保に歩を進める一方、アメリカ軍への戦略的な優位を得るためにハワイ真珠湾の艦隊を奇襲し、みずから対英米戦の幕を切って落としたのです。(伊香俊哉)
参考文献
日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部編『太平洋戦争への道 : 開戦外交史』2〜7巻、 朝日新聞社、1987年
歴史学研究会編『太平洋戦争史』1〜4巻、青木書店、1971〜72年
森山優『日本開戦の政治過程』吉川弘文館、1998年
伊香俊哉『近代日本と戦争違法化体制』吉川弘文館、2002年
伊香俊哉『戦争の日本史22 満州事変から日中全面戦争へ』吉川弘文館、2007年
吉田裕・森茂樹『戦争の日本史23 アジア・太平洋戦争』吉川弘文館、2007年