100の論点:76. ドイツの戦争責任の果たし方から何を学ぶべきでしょうか。

 70年前、第二次世界大戦で無条件降伏した日独ですが、ドイツの場合日本と異なり、1945年の破局に至る起点は1933年のナチス政権成立と、明確に時期区分できます。またドイツでは、最後まで地上戦が繰り広げられ、独裁者ヒトラーが自殺し、敗戦後、4分の3になった領土を米英仏ソに直接分割占領されました。

 旧東ドイツは、もともと天然資源に乏しく、工業も比較的未発達だったにもかかわらず、第二次大戦最大の被害国だったソ連に対し、過重な現物賠償を履行しなければなりませんでした。また、土地改革やナチ・戦犯企業の没収、教員・裁判官らの交代など、ナチ体制を生み出した社会経済構造の変革が断行されました。

1968年憲法は、東独国家が「ドイツ軍国主義とナチズムを根絶した」と謳っています(第6条)。しかし、強権支配のもとで、人びとがそれをどれだけ内面化したのかについては議論の余地があります。

 他方西ドイツは、イスラエルとの補償協定、西欧諸国との対ナチ被害者給付協定を結ぶとともに、国内では連邦補償法で、政治的・人種的・宗教的迫害を受けた人を被害者と認定しました。もっとも社会的雰囲気としては、ナチ時代の巨大な犯罪とまるで無関係であるかのように普通の生活を続ける「悲しむ能力の欠如」(ミッチャーリヒ夫妻)が蔓延していました。西独の政治文化は、1961年のアイヒマン裁判、1963年からのアウシュヴィッツ裁判、1968年の学生反乱を経て、批判的・開明的な方向に大きく変化しました。

 1985年、ヴァイツゼッカー大統領の終戦40周年記念演説は、1945年にドイツ人は人間蔑視のナチズム体制から「解放」されたという歴史認識の確立に決定的に貢献しました。そして、ナチ暴力支配への反省から、加害者の責任追及、被害者への補償、懲罰や教育を通じた再発防止を柱とする「過去の克服」が深化してゆきました。

 21世紀に入っても、たとえば強制連行労働者への補償が行われ、今日もなお、絶滅収容所関係者が訴追されています。さらに、刑法第130条(民衆扇動罪)は、ナチのシンボルを掲げたり、「アウシュヴィッツにガス室はなかった」といった歴史的虚偽を広めることを禁止しています。こうして、ドイツは近隣諸国との和解を達成し、特にかつて不倶戴天の敵だったフランスとは、政府間だけでなく、学校・幼稚園、姉妹都市、事業所、大学・研究機関同士の交流、共同の公共放送「アルテ」、共通歴史教科書プロジェクトなどを通じ、対等なパートナー関係を確立しました。

 ただし、日本の9条のような憲法条項を持たないドイツは、1999年3月のユーゴ空爆で、第二次大戦後初めて実戦に参加、また、「連邦軍が介入可能な地域は全世界だ」(2004年、国防相)として、アフガニスタン(2002年〜)など、国外派兵にも積極的な構えを見せています。さらにドイツは、世界有数の武器輸出大国でもあります。

しかし、国民の多数派は、ドイツが軍事的なグローバルプレイヤーになることに非常に懐疑的です。それは、「過去の克服」を通して、「力こそ正義」を否定する政治的態度が内面化したからだとも言えます。(木戸衛一)

 

参考文献

石田勇治『過去の克服』白水社、2002年

木戸衛一『変容するドイツ政治社会と左翼党』耕文社、2015年