1995年9月、複数の米兵による少女暴行事件が起こったことを契機に、半世紀にわたる米軍基地の重圧と被害を断ち切ろうとする動きが沖縄社会に広がりました。そして大田昌秀知事(当時)は、冷戦終結後も沖縄の基地が固定化された状況への抗議を込めて、軍用地の強制使用手続きに関わる代理署名を拒否しました。それ以降、「国土の0.6%にすぎない沖縄県内に在日米軍基地(専用施設)の75%が集中している」という問題が繰り返し指摘されるようになりましたが、それから20年が経過した今日、依然として在日米軍基地(専用施設)の74%が沖縄県内に存在しています。
その間に日米政府が「沖縄の負担軽減」と称して進めてきた政策は、96年のSACO合意(日米特別行動委員会によって作成された基地移設計画)を基にしています。そこでは当初から、基地の返還にあたって沖縄県内に代替施設を建設することを条件にしている場合が多く、今日まで最大の争点となってきた普天間基地(公式名称は普天間飛行場)に関しては、名護市辺野古の沖合に「海上基地」を建設する計画が打ち出されました。97年の名護市民投票では建設反対が過半数を占めましたが、振興策を柱とする日本政府の強力な働きかけの結果、99年には「15年使用期限」などを条件に県知事と名護市長が受け入れを表明しました。
しかし2004年に辺野古海域でボーリング調査が始まると、非暴力の阻止行動が粘り強く展開されて作業は停滞し、計画の見直しに着手した日米政府は翌年の米軍再編計画に絡めるかたちで「沿岸案」に変更しました。それに対して沖縄県内の世論は、2004年8月の米軍ヘリ墜落事件(沖縄国際大学キャンパス)以降さらに反対を強めており、新たな「沿岸案」は県知事の合意を得ないまま、日米政府によって決定されました。
その後、2010年1月の名護市長選挙では基地建設に反対する稲嶺進市長が誕生し、同年11月の沖縄県知事選挙では、新基地建設を容認しない候補者どうしの争いとなりました。その間に、普天間基地を含めた海兵隊の沖縄駐留についてもその必要性があらためて問い直され、日本政府が繰り返す「抑止力の維持」という説明についても、頻繁に沖縄を離れて移動する海兵隊の運用実態を無視していることが指摘され、政府の固定観念に対する批判が強まっています。さらに2012年からは新型輸送機オスプレイが普天間基地に配備され、事故の危険性や低周波騒音の問題が拡大しています。
しかし日米政府は新基地建設を強行する姿勢を強め、2013年末には仲井真知事(当時)が選挙での公約を翻して、辺野古の基地建設に必要とされる公用水面の埋め立てを承認しました。しかしその判断は県民の支持を得られず、翌年の知事選挙で10万票近い大差をつけて当選したのは、新基地建設を明確に拒否する翁長雄志候補でした。
翁長知事は、前県政による埋め立て承認に法的な瑕疵があったとして、2015年10月に埋め立て承認を取り消しました。その主な理由は、新基地を県内に建設しなければならない理由が不明確であり、環境保全策も不適正であるという点です。埋め立て承認の取り消しに対して沖縄防衛局は、「一般私人」に認められている「取り消しの無効審査」を国土交通省に求め、同省は効力停止の判断を下しました。それによって日本政府は工事を継続することが可能になりましたが、さらに知事に対する是正の勧告・指示および代執行の手続きを進めることを閣議で了承しました。それと並行して日本政府は、辺野古の新基地に隣接する「久辺3区」に振興費を直接支出する方針を表明し、自治体を無視した異例の懐柔策を繰り出そうとしています。
一方、SACO合意によって一部返還が打ち出された北部訓練場では、返還の条件とされる新たなヘリ着陸帯の建設工事が進められてきましたが、地元の東村高江では反対行動が続いています。その動きは、2012年に普天間基地に配備されたオスプレイの危険性や低周波騒音を懸念する声とも連動しながら、今日も継続しています。
いま沖縄の基地では、米軍と自衛隊が「共同使用」する演習が拡大し、軍事同盟の強化に向けた動きが明らかになってきています。それは沖縄の基地負担を増大させるとともに、近い将来における基地返還の可能性を低下させる問題ですが、極めて限定的な情報しか明らかにされていません。(鳥山 淳)
参考文献
NHK取材班編『基地はなぜ沖縄に集中しているのか』(NHK出版、2011年)
ガバン・マコーマック+乗松聡子『沖縄の〈怒〉 日米への抵抗』(法律文化社、2013年)
山城博明『抗う島のシュプレヒコール OKINAWAのフェンスから』(岩波書店、2015年)